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  • 執筆者の写真東京足湯 プロジェクト

原発避難から約1年のつぶやき「週刊つぶやき」より

東京で広域避難者のみなさんへ足湯を提供し始めたのは、震つな×ROADプロジェクトでの事でした。その事務局では足湯で聞いたつぶやきを、いろいろなテーマに分けて「週刊つぶやき」として発信をしていました。


今回紹介するのはその中の「原発避難者の1年(福島→東京)」というテーマ。避難から約1年の間に聞いたつぶやきです。これら避難されてきた方たちの言葉が私たちの活動の原点にあります。あれから10年以上が過ぎましたが、忘れてはいけないことは沢山あると思います。



>以下が当時お送りした「週刊つぶやき」です。


◇週刊つぶやき◇第78号【原発避難者の1年(福島→東京)】

 2013年2月配信(震災がつなぐ全国ネットワークより)


ROAD事務局より、◇週刊つぶやき◇第78号をお届けします。

今回のテーマは【原発避難者の1年(福島→東京)】です。

東京クールという形で、都内に避難している被災者(特に福島から)の方への足湯ボランティアを始めてから、ちょうど1年が経ちました。

現在まで、足立区、板橋区、千代田区内で避難者の方たち(みなし仮設在住)が集まる場で、細々ながら足湯の活動を続けてきましたが、今回は特に福島県内からの原発避難者の1年間のつぶやきを取り上げています。

最初に足湯を行うきっかけを作って下さった「とみおか子ども未来ネットワーク」は、全国各地でタウンミーティングを開催し、富岡町からの避難者同士が語り合い、その声を今後のまちづくりに生かすべく熱心に活動されています。

足早に流れゆく日々の中で埋もれてしまいがちなこうした声を、しっかりと聴き続け、これからの社会のあり方を考えていく必要があるのではないでしょうか。


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○(2011年)4月から入ってるよ。もうノイローゼになりそうで、頭ん中ぐちゃぐちゃで、いろんな病院に連れて行かれた。最近落ち着いて来たけど、全部おいて来たからね。米もメロンも野菜も全部作ってたんだよ。米買うなんて初めてで。畑、どうなったかなぁ。犬も置いてきたよ。生きてるかなぁ。エサいっぱい置いてきたけど、つないだままだから、ダメだろうね。うちは原発から5㎞。津波もひどかったよ。4人同級生で死んだ。これから良くなればいいけどね。

(2012年2月6日 避難元・双葉町 60代 女性)


○うちは請戸で魚も野菜も食べ物がほんとにおいしかったの。東京のものはまずいね。津波が来た時、息子が車で迎えに来てくれて。「早く乗れ!死ぬぞ!」って必死で乗り込んで、でも途中から車から降りて山を駆け上ったんだよ。神社でたき火たいて、その晩過ごしたの。福島の中で、7,8回変わってここ(東京)に来たんだよ。11月に戻った時、草をかき分けて入ったの。息子はもう帰る気ないって言ってる。

(2012年2月6日 避難元・浪江町 70代 女性)


○おばあちゃん達は「少しでも福島に近い所」と言っていますが、これからの若い人たちのことを考えると、少しでも安心できるところで、山が見えるような田園地帯に住みたい。足湯はいいですね。おばあちゃんたちが広いところに集まって、こんな風に楽しそうにおしゃべりできることってないから。仕事をしたいけど、子どもの線量を測りに福島まで通わなければならなかったり、落ち着く先が決まらないので、就職するにも気が気でない。東電が早くに代替地とか決めてくれればすぐにも移りたい。

(2012年2月6日 避難元・双葉町 40代 女性)


○(避難してきたのは)去年の4月、もう1年になる。農作業をしなくなってから1年、何もしていない。時々気が滅入ってしまう。

(2012年3月7日 避難元・南相馬市 80代 女性)


○1年経ったので、国から帰れと言われているが、原発から8㎞圏内なので、帰ってもお店もないし、畑も出来ないし、お野菜も買えないし、仕事もないから、帰れない。息子は子どもがいるので帰らないと言ってる。一人じゃどうしようもない。こっちにいてもやることがない。が、向こうに帰ってもやることがない。

(2012年3月7日 避難元・富岡町 50代 女性)


○今月22日に(一時)帰宅できるから、楽しみにしているの。息子は見たくないって言うんだけど、どうなってるか見たいよね。原発から6kmのところだから、雪は降らないんだけど、どうなってるかね・・・。

(2012年3月7日 避難元・不明 60代 女性)


○向こうじゃ毎日山で仕事してたけど、今は何にもしてないから、(手の皮が)ぺらぺらだ。きのこも作ってた。しいたけも大きくなってるだろうけど、食べられないね。

(2012年5月18日 避難元・葛尾村 70代 男性)


○娘が福島で私がいわき。自宅はどちらも住めないから2人できたの。家はあるけど住めない。娘はね仕事で福島に通ってるの。東京じゃなかなか仕事がみつからなくてね。電車だと高いからバスでね。毎日じゃないけどそりゃつかれるわよ。

(2012年6月20日 避難元・いわき市 60代 女性)


○かやぶきの家は地震で剥がれ落ちているし、人が住んでいないし、子供が言ったように「重病の人を見ているだけで何もできない」のと一緒。あと何十年も先になるんですけどね。

(2012年7月18日 避難元・南相馬市 40代 女性)


○川内村なんだけどね。若い人は帰ったりしてるけど、4号機がね。上が(全部)ないから、あんが今度爆発したら東京まで来るよ。東電が言ってることは・・・。

(2012年9月8日 避難元・川内村 70代 男性)


○都会に慣れたら、みんな田舎に泊まりもしないですぐ帰るよ。お盆に帰った時、みんなそうだった。百姓もやらなくて済むし、朝も9時近くまで寝てるからね・・・。米、作っても放射能じゃね。大丈夫って言ったって、誰も買わないものね。

(2012年9月8日 避難元・川内村 70代 女性)


○子どもたちのやっぱり健康が気になって。下の子はよくケガもするんですけど、いつだったか突然意識不明になって倒れて・・・。原因不明って言われると考えてしまうわね。まー慣れたと言えば慣れてますけど。なんだかよくわからないうちにこーなったので・・・。

(2012年10月21日 避難元・不明 30代 女性)


○今朝も体操に行って体動かして来たのよ。自分で出来る事やっておかないと。こっちにきてやっぱり体あちこち痛くなるわね。前は足の悪い人を誘ったり、話を聴いたりしてたけど、自分のことだけで精一杯になって来たのよ。この歳でこんなことが起こるなんて思ってなかったけどね。毎日毎日前だけむいていかないとね。

(2012年11月23日 避難元・不明 70代 女性)


○福島で原発の関係で一時娘のところにいたんよ。でもそこも狭くてこちらに来たが、こちらも狭いので不便にしている。いつ帰れるか分からないので荷物もできるだけ増やさないようにしているんよ。一応家には届を出せば帰れるが、車もないし、子どもたちに頼むのも遠慮があるし、また水道も来ていないので行く時は水を持っていかなければいけない。

(2013年1月16日 避難元・不明 50代 女性)


○いわきの四倉のね、海のすぐそばにいたんだよ。1Fのピアノは津波で流されて、2Fの無事だった物は泥棒にあった。同業者が何人か亡くなってね、この間会った人は、4人家族のうち3人亡くなったって言ってたよ。

(2013年1月20日 避難元・いわき市 70代 男性)


○自分は大熊生まれだが、東京暮らしが長かったので、東京に避難して来ても東京に慣れているが、田舎暮らししかしたことない人は大変だね。一時帰宅を5回した。大熊は原発ができてだいぶ変わったね。原発は危ないと思っていたね。

(2013年1月20日 避難元・大熊町 60代 女性)

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